進歩は「その一言」から

息子が通う保育園でもコロナ禍で多くの問題がある。そんな中、ささやかな改善を園に求めたいとある親が父母会に何か提案すると、少なくない保護者から常に出てくるのが「既に園に多くの負担がかかっている中、要望はすべきでない」という意見である。ある時には、「要望は圧力になる」「クラスでの議論はやめよう。父母会役員で引き取ります」と議論終了の宣言までされてしまった。

負担への配慮は必要であるが、負担と要望内容の重要性を比較しつつも、まず提案すること、いやそれ以前に、議論することから社会の進歩は始まる。しかし、私にとって身近な社会の一つである保育園においても、皆で声を上げることは容易でない。

日本社会では「お上に従え」との風潮がいまだ幅を利かせている。コロナで社会の問題がこれだけ露呈し、人々の強い不満が渦巻いているのに、幾つかの取り組みを除き、政府のコロナ政策に物申す提言や抗議が広く活発になされてきたとはいえない。

コロナに限らず、先進国といわれる他の国々では、政府の政策が誤っていると思えば、変化を求めて行動するのがむしろ当然である。留学先のアメリカでは何かあればすぐにデモが行われ、老若男女が街に繰り出していた。

ある研究によれば、政治的なデモに参加する人には「近づきたくない」と考える傾向が中国と日本では突出して強いとのことである。「なぜ日本人は政治活動に参加しないのか?」と教えている大学で学生に聞くと、多い回答の一つは「恵まれているから声を上げる必要がない」であった。いや、違う。日本の子どもの貧困率は13.5%とOECD(経済協力開発機構)諸国でも下位に位置しているし、世界の幸福度調査でも日本は56番目で、けして上位ではない。幸福度がはるかに高い欧米の国々で人々は現状に物申すための行動に積極的に参加している。

18歳対象の世論調査で「自分で国や社会を変えられると思うか」との質問では、米独韓など他8カ国平均では約6割が肯定的な回答をする中、日本で「そう思う」と答えたのは18%のみであった。首相の「自助、共助、公助」発言以前から既にその精神は国民に染みついており、自分がいくら悲惨な境遇にあっても甘受するほかなく、「自分で」もしくは「仲間とともに」「社会を変えよう」と思うに至らないのが日本なのである。改善の努力がなければ、どんな社会にもどんな分野にも進歩はない。

選挙の投票率も下がり続ける中、低投票率の方が政権与党の自民・公明に有利との評価も定着している。「新聞読まない人は、全部自民党なんだ」との麻生太郎副総理の発言もあった。政治への無関心を変えるには教育を変えるべきだなどと言われて久しいが、今の政府に現行制度を変えるモチベーションが生じるはずもない。

「なぜ日本人は政治活動に参加しないのか?」との問いへのもう一つのよく見られた学生の回答は「動いて変わった成功例がない」。いや、これも違う。確かに、成功者たちはもっと大っぴらに活動の成果を宣伝すべきだろう。しかし、駅にエスカレーターやエレベーターが付いたのも、大学に女性がここまで進学するようになったのも、多くの先人が声を上げたことの結果である。

著名な歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは言う。「あなたを抜きにして人類の将来が決まったとしても、その決定がもたらす結果をあなたも子供たちも免れることはできない」

政治の対象は私たちの生活である。遠い永田町を目指さなくてよい。先日、息子の保育園のある保護者から出た要望は「園でコロナ陽性者が出た場合、陽性児童との接触者をしっかり追ってほしい」というものであった。

自分自身の不安や不満のその一言を外に発し、皆で議論するところから政治は始まる。

 

(北海道新聞 2021年9月30日)