研究・報告

なぜ米軍基地は沖縄に集中しているのか - 「銃剣とブルドーザー」で土地を奪い、本土の基地を沖縄へ(屋良朝博)

ND評議員/元沖縄タイムス論説委員

2017年4月25日、普天間飛行場を名護市辺野古沿岸部へ移設するための埋め立て工事が、ついに始まった。日本政府が民意を無視して、大規模な米軍基地建設に着手したことに沖縄では反発が強まり、混迷が深まる。

普天間問題とはいったい何だろう。同飛行場を使う米海兵隊は1950年代に日本本土に配備され、反基地闘争が本土で炎上したころ、沖縄に移駐した。当時、沖縄を統治していた米軍は、基地拡張のため住民に銃剣を向け、家屋をブルドーザーで壊して土地を奪った。無理やり本土から沖縄へ移した部隊の飛行場が、いまでは住宅地に囲まれて危険だからと、日本政府は地元の反対を無視して基地の代替地を勝手に決めて海を奪おうとする。

埋め立て着工を報じる地元紙に掲載された写真には、大型クレーンで岩を詰めた大きなネットを波打ち際に設置する場面が写っている。作業員も警備する海上保安官もみんなマスクやタオルで顔を隠しているのは異様な光景だ。抗議するため懸命にカヌーを漕ぐ市民だけが顔を出している。反対運動に参加する市民に対して心ないヘイトスピーチは「テロリスト」と批判を浴びせるが、写真を見る限りどちらが“テロリスト風”なのかわからない。

翁長雄志沖縄県知事は「許し難い」と強く反発する。国の工事着手を受けて記者会見し、法的手段を含め抵抗していく覚悟を語った。政府の強引なやり方を、知事は「銃剣とブルドーザーのような建設だ」と非難する。着工当日に報じられた沖縄タイムス社、朝日新聞などの合同意識調査によると、辺野古埋め立てに「反対」は61%で、「賛成」の23%を大きく上回った。

本土では50年代から60年代にかけて、基地反対運動が盛んであったのに、いま本土では沖縄での基地反対を非難する言説がかつてなく広まっている。一部メディアは裏付けもなく、反対派住民が「日当をもらっている」「中国が裏で糸を引く」といったデマ情報を流す。かつての本土の反基地運動はいいが、沖縄が基地に反対することは許さないとでも言うのだろうか。

翁長知事が語る「銃剣とブルドーザー」とは何だったかを、いまこそ思い起こすべきだろう。

米軍基地隠し

沖縄への基地集中は軍事配置やアメリカのアジア戦略といった概念とは無関係だ。沖縄の米軍基地の約7割を占有する米海兵隊は、朝鮮半島情勢を警戒するため、53年にカリフォルニアから岐阜、山梨、静岡などに配備された。すると本土で反基地運動が激しさを増し、56年に米軍の占領下にあった沖縄に移転してきた。沖縄は朝鮮半島から遠く、しかも沖縄には海兵隊が出撃するために使う艦艇、大型輸送機といった輸送力が配備されていない。にもかかわらず、軍事合理性とは無関係に政治的な理由で、海兵隊は沖縄に押し込められた。これが史実だ。

50年初頭に朝鮮戦争が起きると、米軍は射爆場の提供を日本に求めた。軍事費を節約するために、米軍が日本製の砲弾を使うことにしたため試射場が必要になった。52年、石川県内灘にある砂丘が候補地となったが、住民はむしろ旗を立てて闘った。53年は長野県浅間山演習場、55年に群馬県妙義山でも同様に米軍演習場を設置する計画があったが、すべて住民の反対闘争で断念することになった。

なかでも55~56年の東京立川飛行場拡張計画に反対する住民運動は、「砂川闘争」として広く知られている。反対住民と機動隊が激しく衝突した。

富士の麓で海兵隊が砲撃演習をしていた山梨県では、地元の婦人らが大型軍用車両の前に座り込む決死の闘争となった。それらに比べると、現在の沖縄における住民運動は実にソフトで非暴力である。

基地問題が全国に飛び火する政治情勢の中、岐阜県などから沖縄に海兵隊が移転してきた。この移転が軍事的な理由によるものではないことはすでに述べた通りだ。米国の当時の公文書によると、沖縄への海兵隊配置に軍部は反対していた。警戒すべき朝鮮半島から遠く、輸送手段がない。またアジア太平洋地域で米軍の存在、抑止力をアピールするためには、海兵隊より強大な米陸軍を配備する方が抑止力を誇示できる、との主張が軍部にあった。

ではなぜ海兵隊は沖縄に来たのだろうか。その理由はまだ明確にはわかっていない。インドシナ半島などの共産化を警戒するといった文言が当時の米軍の文書には散見されるが、沖縄からは遠すぎる。推測されるのは、反基地運動の広がりを米政府が懸念し、当時は日本から切り離されていた沖縄に米軍基地を移動させたと考えられる。

アメリカの国務省がまとめた「日本における米国の軍事的立場の再考」(56年12月21日付)には、米軍駐留の政治的コストが看過できないほど高騰した場合、沖縄を主要基地として保持し続けると記されている。沖縄への基地集中は米軍の存在を日本人の目から遠ざけ、「不可視化」することで、高まる反基地感情を抑えようとした。そして有事に日本のあらゆる施設の「自由使用権」を確保しようという外交上の思惑があった。

基地隠しが進んだ結果、日本人は米軍駐留が引き起こす矛盾や問題に無頓着でいられ、日米同盟は安定化していった。東京など首都圏の上空にいまも米軍の広大な管制空域(横田空域)が設定されているという、主権放棄の状態にも“寛容”な国民になった。アメリカ軍のためなら沖縄の民意など取るに足らないという意識が醸成されたことは、基地「不可視化」が政治的に大成功を収めたということだろう。

50年代は、小さなレーダーサイトを含め計約600カ所の米軍基地が日本国内に存在していた。海兵隊が岐阜などへ配備された53年、駐留米軍兵力の本土と沖縄の割合は本土に89%、沖縄は11%だった。それでも国土面積に占める沖縄はわずか0.6%なので、すでに小さな島は基地で溢れていた。さらに海兵隊の移転とともに基地拡張が沖縄で進み、70年代はじめごろの比率は本土46%、沖縄54%となり、本土で米軍基地の再編統合が進んだ結果、現在は本土30%、沖縄70%となっている。

土地強制接収

沖縄への海兵隊移転が決まり、基地増設が進められたのは、45年の終戦から10年が経ってからだった。55年3月、伊江島を完全武装の海兵隊員300人が3隻の強襲揚陸艦で“強襲”した。住民から土地を取り上げ、新たな基地を建設するためだった。

伊江島は沖縄本島の本部(もとぶ)半島から西約9キロに浮かぶ周囲22キロの小さな島だ。茅葺き屋根の家々を米軍はブルドーザーで押しつぶし、焼き払った。土足で家に上がりこむ米兵に住民は哀願したが通じない。家を失った人々に米軍は野戦テントを与えただけだった。雨水が土面を伝わりテントに入り込む。沖縄の太陽はテント内を蒸し風呂にした。

同年同月、米軍は本島宜野湾市伊佐区でも大規模な強制接収を強行した。当時の琉球新報は「遂に軍は非常手段に訴う」「地主と武装兵が対峙 物々しい警戒で断行」「泣喚く婦人子供ら」「失神の老人も出る騒ぎ」などと報じた(55年3月11日)。米軍は3月に3万坪、7月にも10万坪の土地強制接収と32の家屋住民に立ち退きを通告していた。夜明け前に集落に現れたトラックとブルドーザーが、完全武装の米兵に守られながら土地を敷きならし、家屋を倒していった。伊佐浜は沖縄でも有数の穀倉地帯だったが、田畑には海砂が入れられ二度と農業ができないようにしてしまった。

同年7月には伊江島、伊佐浜に続き、本島北部の8町村に対しても土地接収が通告された。そのとき米軍は一連の土地接収が海兵隊受け入れの準備であることを認めた。

最終的に新基地のための土地接収は合計で1万6187ヘクタールに及び、立ち退き戸数は約500戸に達した。当時、既存の米軍施設は1万7132ヘクタールで、海兵隊移転によって沖縄の米軍基地は2倍に膨れ上がる。(鳥山淳著『沖縄/基地社会の起源と相克1945―1956』勁草書房)

米軍司令官が発布する「土地収用令」の紙切れ一枚を法的根拠とし、銃を持った完全武装の米兵が集落を襲った。住民はなす術なく家と田畑を奪われた。

スティーブス書簡

海兵隊が沖縄へ移転した1956年、経済企画庁は経済白書『日本経済の成長と近代化』で、「もはや戦後ではない」と書き、このフレーズが流行語になった。1人当たりの実質国民総生産(GNP)が、前年の55年に戦前の水準を超え、戦後復興が終わり、高度経済成長へと移行する節目の年だった。冷蔵庫、洗濯機、テレビの家電製品が普及しはじめた。この年、歌手・大津美子の「ここに幸あり」がヒットした。

日本は安全保障の負担を沖縄に集中させて、国家主権のセンシティブな問題と絡む米軍駐留を国民の目から遠ざけた。海兵隊の沖縄移転により、本土では「高度経済成長」、沖縄には「安保負担」という二極化が鮮明になった。

沖縄に赴任したばかりのアメリカ総領事、スティーブスは海兵隊の移転によって「沖縄問題は解決不能となる」と危惧した。スティーブスは在日米大使館のアリソン大使を通して、アメリカ国務省(ワシントン)に海兵隊沖縄移駐を中止するよう訴える書簡を計7通打電している。

「国防長官がなぜ海兵隊の沖縄移駐を決断したのか、誰にも分からない。(中略)彼ら(沖縄現地の軍部)は私の見解に賛同している」。当時、沖縄で基地を保有していた陸軍、空軍とも海兵隊の沖縄移駐に反対していた。海兵隊ですら沖縄移転に異を唱えていることを報告している。

スティーブスは、新たな土地強制接収で住居を失う世帯数を1200世帯に上ると試算し、「人々は引っ越さなければならないが、どこへ移るのかは未決定」と窮状を訴えた。

スティーブス書簡で注目すべきは、軍部は海兵隊の沖縄移駐に反対だったという記述だ。ワシントンから視察で沖縄を訪れた陸軍次官さえも、海兵隊の沖縄移駐に反対だったとスティーブスは書いている。海兵隊が沖縄を拠点とする軍事的な理由はなかったということだ。

スティーブスの予言は正しかった。あれから半世紀を超え、沖縄の基地問題は海兵隊が使う普天間飛行場の移転問題で混迷が続く。

完結した不可視化

知り合いのメディア関係者はこう嘆いた。

「沖縄を取り上げた雑誌は売り上げが伸びない。テレビの番組宣伝で『沖縄米軍基地』『普天間問題』という文字があると視聴率が下がる」

日本人にとって沖縄基地問題は目を背けてしまうテーマになったのだろう。騒音、事件事故など米軍基地の被害報道が主流となり、沖縄の人々がいつも怒っている様子が本土の視聴者にとっては不快なものなのだろうか。沖縄の基地問題について中身の分析がほとんどなく、多くが被害報道に偏ってしまっている。

沖縄に存在する米軍基地の7割が海兵隊基地だ。日本は「ここに幸あり」が流行った56年に海兵隊を沖縄に押し付け、経済成長と安寧に浸った。安全は空気のように与えられるものになってしまった。尖閣諸島が中国に奪われても沖縄の米軍が出動し、奪還してくれるはずだ、というシナリオを信じて疑わない。

辺野古の埋め立てに反対する住民らに対し、大きな日章旗をなびかせながら大音量のスピーカーで街宣車ががなりたてる。

「お前らー、アメリカ軍が日本を守ってくれているんだ。そんなこともわからんのかぁ」。思わず吹き出しそうになる光景だ。

自国は自分で守る、という気概くらい見せて欲しいものだ。“不毛”と言われた戦後の安保論争が産み出した悲劇(喜劇)だろう。

いまや日本人が率先して、「銃剣とブルドーザー」のような埋め立てを、辺野古の美しい海で強行しようとする。米軍駐留のためなら沖縄の民意など取るに足らない、と考えるように導く米政府の“誘導”は完全に成功した。

海兵隊移転で沖縄住民が土地を奪われていたころ、芦田均(自由民主党外交調査会長)はこう語った。

「沖縄は終戦直後の情勢からみると生活は著しく改善された。かつては麻袋をまとい、素足で歩いていたものが、いまでは洋服と革靴の生活に直った。東京政府の手ではこれだけの復興はむずかしかっただろう。農耕地を失った住民のほかは生活は安定している」

当時の首相、鳩山一郎もこう発言した。「米国がどこかに土地を提供して土地を取られた住民にやるように骨を折ってくれれば一番いいと思う」。

戦争で本土防衛の防波堤となり玉砕した沖縄。日本独立となったサンフランシスコ講和条約によって本土から分離され、50年代には本土から追い出された海兵隊の基地を確保するために、多くの人が家財産を奪われた。そして、いまも日本は海を奪おうとする。沖縄にとっての「脅威」は常に北からやってくる。

こちらの記事は、2017年6月16日に「情報・知識&オピニオン imidas」に掲載されています。

屋良朝博

フィリピン大学を卒業後、沖縄タイムス社入社。
92年から基地問題担当、東京支社を経て、論説委員、社会部長などを務めた。
2006年の米軍再編を取材するため、07年から1年間、ハワイ大学内の東西センターで客員研究員として在籍。
2012年6月に退社。現在、フリーランスライター。